2011年3月11日の行動メモ

地震発生当時は上長席の付近で立ったまま打ち合わせ中。製品保守の入札価格の話だったか。

最初はゆっくりゆらゆら横揺れがある程度で、周囲も楽観視していた。

ずいぶん長いな、と思って窓際に行ってブラインドの間から外を見ていたが、そのうち洒落にならないぐらい揺れてきた。隣の課の課長が机の下に身を隠すよう指示、フロア全体に一斉に緊張感が走る。

やがて揺れが収まる前に停電。
すぐに社内放送があって、社屋裏の駐車場に避難命令が流れた。

しばらく停電が復旧するまで待機、という指示だったが、15時半を過ぎたあたりで復旧見込み無しとのことで帰宅指示が出た。

フロアごとに人数を分けて社内に戻り、ノートPCの電源を落としてカバンにしまい、身支度をして再度駐車場に戻る。

この時点では電車の運行再開予定も不明だったので、電車でしか帰れない同僚・部下の動向を確認して、自分は徒歩で帰ることにした。

東戸塚から大和市までGoogle経路検索でおおよそ10km。帰宅困難者と呼ぶには可愛いほうだ。
10kmだったらたまに気が向いたときに走るジョギングコースの距離と同じなので、そんなに抵抗は無い。
たまたまこの日はウォーキングシューズだったし。

16:30頃、東戸塚からまっすぐ西方向に歩き始める。追い越してゆく緑園都市行きや弥生台行きのバスはガラガラ。あー、そういうバスがあったのね。まぁいいか。

道中WiMAXで通信しながらiPod touchで道を確かめたり、Twitterやニュースで情報収集。夕方までの段階では、首都圏の工場のニュースとか、電車運休のニュース、帰宅困難者のニュースがメインで東北のニュースは全くわかってない。

いずみ野駅を過ぎたあたりで空は真っ暗。

細い抜け道で車列が詰まっている。

いちょう団地で通行止め。いちょう小学校と渋中の間。

藤沢街道を過ぎたあたりでWiMAXの通信ができなくなる。

自宅に着いてみると、光回線も不通。光としてはリンクしてるっぽいんだけど、IPが割り当てられてなく、電話も使えない。


翌日から長男小二が通っているバレーボールチームの合宿が愛川である予定だったが、水曜から長男は風邪を引いていて、日曜だけ参加するつもりだった。
妻が合宿の手伝いで愛川の現地まで荷物運搬する予定だったので携帯がなかなか繋がらない中メールで情報交換中。

こんな状況なんだからさっさと中止決定しろよとか思って横で話を聞いていたが、なんと決行すると連絡があったとか。
ふざけんな、子供も行かせないし、妻も行かせるつもりは無いから、さっさと断りの連絡を入れさせたら、日付が変わる前ぐらいにやっと中止の連絡があった。

確かに津波のニュースが入ったのは夜も遅くなってから。
それまで首都圏ではそれほど深刻な感じではなかった。